【てらびと vol.2】小池龍之介さん

前回の藤岡さんも好評だった「てらびと」ですが、今回は小池龍之介さんにお話を伺いました。

メディアにも多く出られているので、小池さんのお名前を聞いた事がある方も多いのではないでしょうか?

小池さんはご実家がお寺で、ご自身も高校生の時に得度されます。その後、浄土真宗本願寺派で教師資格を取得。しかし、2003年から始めていたブログが好評となり、本の出版を経て、メディアの露出が増えていった頃、浄土真宗本願寺派から異端視され、僧籍削除となってしまいます。現在は、本の執筆を続けながら、鎌倉市で「月読寺」を運営されています。僧籍削除、カフェオープン、一人旅、後継ぎの葛藤、瞑想で得た素晴らしい体験など、赤裸々に語っていただきました。

座禅を通して心の中を読み解く

—-まずはお坊さんになったきっかけを教えていただけますか?

まず、私は普通のお坊さんではありませんので、なぜこのような形でお寺を運営しているのかを簡単に説明させていただきます。

私の父は、浄土真宗本願寺派の僧侶です。ですので、物心がついた時からお寺や仏教が身近な存在でした。そういった環境だった事もあり、自然と十代のころから仏教を学べば人間の心とはどういうものなのか、自分とはどういうものなのかが理解できると思い、高校生の時に得度しました。

大学生になって自分の人格上の問題、自尊心の高さやその背景にある劣等感、心の傷の元に生まれてくる他者への要求の高さ、満たされない時の攻撃性などが、家族関係、友人関係、恋人関係などの身近な関係を破壊してしまうと気が付きました。

そういった体験が自分を見つめ直すきっかけとなりました。そして、瞑想などの修行の道に入ることで、自分自身の心がなぜそのように動くのか、なぜ心のカラクリに支配されるのかという事を本などで学ぶのではなく、自分の心の迷路の中に分け入っていけばそこに書いてあるという事に気が付いたのです。

この心の中に書きこまれている内面の習癖を、瞑想を通じて読むという辛抱強い作業に取り組んでいたら、少しづつ心の癖は洗い流されていき、そうこうしているうちに20代の終わりくらいになった頃には、心はすっかり洗い流され、その時にこの道しかないという気持ちになりました。
ただこの道しかないと思っても、これはお坊さんなのかというとわかりません。私の場合は、座禅を通して心の中を読み解いていく作業、どんな風に心の傷を負っているのかを深く深く読み解けば、根本から癒えていきます。そのような生き方を見出しました。それ以外に生きていくのに用はないという心持ちになったのです。

ただこういった作業はお坊さんだからできるという訳ではなく、成り行き上、お坊さんとして活動している事がなんとなく便利そうで、お寺や仏教という事が今申し上げたような事に馴染んでいるので、私はそういった立場で生きているのですが、仮にお坊さんではなく、大工さんだとしても今のような生き方をしているだけだと思います。大工さんというのは、今この瞬間に集中して働く事に没頭できるでしょうし、仕事以外の時間で座禅をしていられれば私は幸せなのです。

ある意味でお坊さんというのは、むしろ仏教的に生きにくくするような足かせを人に負わせる側面があると感じています。

一番大事なのはお坊さんである事ではなくて、座禅をする事なんですよ。これは、お坊さんでなくても出来ますからね。ましてや私は法事や葬式というのにはあまり興味がありません。

4、5年位前に、父の希望で一旦実家のお寺を継いで、数年住職をしていました。その時は本当に文字通りお坊さんをしていました。自分の与えられた運命だと思って極力真っ当に葬式や法事なども行っていました。しかし、それと同時に修行者をお寺に呼んで、修行をするお寺にしようと思って改革を進めようとしていました。葬儀や法事など、やりたくないけどやらなければいけないというのは、私にとって難儀なことでした。

それを職責だと思っていたのですが、基本的にはやりたくないことでした。もう一つは、檀家さんにとっては、修行寺にする事は全く興味がない事だったので、みなさまから反対を受けました。自分たちのお寺と思っているところに、他所の人たちを連れてきて瞑想をしていますというのは、とても嫌な事だったようです。

ですから、私にとっては法事や葬式を行いたくないという思いがあり、檀家さんにとっては関係ない人たちを連れてきて修行をするような事はやめてほしいという思いがあったようです。自分たちがお金を出しているお寺なのに関係ない人たちが利用して、座禅や瞑想を行っているのは意味がわからないし、気持ちが悪いという印象を与えてしまったようです。どちらにとってもあまり良い事ではありませんでしたね。3、4年かけて学習させていただきましたが、最終的には父に再度住職に就いてもらい、私は抜けさせていただきました。おそらく、二度とそういったお坊さんにはならないと思います。

—-法事や葬式を行うのが難儀とおっしゃいましたがなぜでしょうか?

興味が無いというのが一つと、あとはお坊さんがやる事ではないとも思っています。しかし、それが無意味な事ではないというのは知っているのです。ただ、お坊さんがやるよりも修養を積んでいる神主さんや修養を積んでいる霊能力者が行った方が効果があるという事を知っています。

予備校の教師、カフェ開業、旅

—-この道しかないと思われた経緯を詳しく聞かせていただいてもよろしいでしょうか?

大学時代のお話になりますが、個人的にとても苦しい時期でした。しかし、この時に自分をしっかりと見つめていれば心の癖から脱却できる感じがありましたし、その先に希望があるように感じられました。そこで思ったのです。この道に行くしかないと。そこから修行がパーっと開けて、決定的に安心を得て、この身ひとつで自分が満足できるようになるのは、28、9歳の時でした。

大学卒業後は、川崎にある浄土真宗のお寺に就職して、お経を読んだり、ホームページを更新したりしていました。そして、同時に予備校の教師としても働いておりました。その生活を1年間くらい続けておりましたが、肌に合わなくて辞めてしまいました。

それからお寺としてのカフェを開き、お客さんの話に耳を傾けながらお茶を出したり、精進料理を作って振舞ったりしていました。目的としてはお坊さんのお話を聞いて欲しかったですし、精進料理なんかも食べてもらいたかったんです。自分一人で経営していた小さなカフェでしたが、とても楽しかったです。しかし、人のためにカフェをやっているとか偉そうな事は言っていても、私自身はフラフラして不完全な状態でした。それでこのままではダメだと思い、2年続けていたカフェを閉じて、旅に出る事にしました。1年間くらいでしょうか、各地を転々として、ひたすら座禅を組んで瞑想をしていましたね。

—-ご自分が成長するために、お寺で修行をする訳ではなくて、カフェを開いて旅に出るというのが興味深いですね。

正直、宗派の教えにはピンと来ていませんでした。例えば、慈悲の瞑想というのがあります。内面を見つめるというのとはまた別の次元のお話ですが、当時、この慈悲の瞑想を補助的に取り入れていました。浄土真宗本願寺派で住職の資格を取るために京都へ修行に行ったのですが、そこで習う内容にはあまり興味が持てなくて、瞑想ばかりしていました。やがて、それが教師の方達にも伝わって問題視されるようにもなりました。この件が伏線となり、破門へと繋がっていったのかもしれません。

本の出版とメディアでの露出

—-宗派の教えではなく、ご自分の道に進む事は勇気がいる事だと思います。不安や焦りなどは無かったのですか?

その不安は全くありませんでした。なぜ、不安が無かったかと言いますと、時々大きなものが与えられると一瞬守りの姿勢に入りたくなる気持ちが生じなくはないのですが、ただ対局的に見れば、私は昔からいつも捨て身で生きているものですから、今すべてを手放さなくなったとしてもなんとなく受け入れる準備はできているのです。
若い頃は、こういった捨て身さが外部に向かって攻撃的に発散されるエネルギーに変換されていくことが多かったのですが、今は自分の内面にエネルギーが向かっているので受け入れる事ができるのです。ある意味、この捨て身で突き進めるのは天与の特質だと思います。この特質は非常にありがたいものです。

—-素晴らしい特質ですね。うらやましいです。。メディアに出始めたのもこの時期でしょうか?

カフェを開いていた時に、一度新聞に取り上げられた事がありました。その記事を読んで、ある出版社の編集の方がお店に来られたんですけど、その方は当時編集の仕事で幾つかの悩みを抱えていました。そういった状況の中で、その方にとって私のお話ですとか、ブログが生きていく上で非常に役に立つとお感じになったようで、本にしたいという事をおっしゃっていました。ただ、そこからすぐに本を出版するという事にはなりませんでした。

カフェを辞める時にお客様などに「カフェを辞めて修行の旅に出る」という事をお伝えしました。その時に編集者の方がやってきて、「まだ本にまとめられていなくてすみません」と、別に泣くようなことでもありませんのに泣きながらおっしゃいました。そして、私が旅に出ている間に彼女は編集作業をやられて、私がそろそろ帰ろうかなぁと思っていた時に本ができていました。それが私の1冊目の本となったのですが、予想に反してとても多くの反響がありました。それからメディアに出るようになりましたね。

ただ、1冊目の本は私が修行に行く前の私の考えを文章にしたものですので、まだ未熟な部分も多いと思います。それが売れたというのは複雑な心境でもありますね。

—-本を出す事で世間から賛否両論あったと思うのですが、本を出版してみてよかったですか?

そうですね、今となっては賛否というのは、ただ風が吹いて岩を吹き抜けたような事ですが、当時は旅を通じて安心を得たと言っても、まだまだスタート地点というか、まだまだ歩みを進めなくてはならないその地点においては、人から悪口を言われたり批判されたりという事が心に不快感を与えるようなものでした。そういう点においては、当時は本を出版しても嬉しい事ばかりではありませんでした。

ただ、よかったとか悪かったという事は、実は真剣に答えようとするとよくわからないのです。主観的な視点で言えば、よかったとか悪かったとか答える事はできるのですが、もうちょっと真実味のある地点からお答えしようとしてみると、「賛否があったようであった」としか言えず、今となってはそれには特に関心がないのです。

月読寺を開く

—-なるほど、深いですね。。それでは旅から帰ってきてどのような生活をされていたのですか?

旅から帰ってきて、どこに住もうか考えていたのですが、たまたま世田谷区の豪徳寺を歩いていたら風呂なしの3畳と4畳半の二間のアパートの間取り図に目が留まりました。一目で気に入って、不動産屋に入り、その場で契約しました。わざわざそんなところに住まなくてもよかったのですが、当時はなぜか直感的に決めていましたね。そして、そのアパートに住み始めたんですが、まずはドアに黒板を貼り付けて「月読寺」と書きました。そこで座禅会を始めたんですよ。当時は本の影響もあり、読者の方が多く来られていました。ここで「月読寺」が誕生しました。

すぐにその部屋は狭くなってしまいましたので、同じ世田谷区で、もう少し広いお家を初めの本の印税を使い購入しました。事故物件だったので安かったのです。笑
そこに移転して再び道場を開いていました。

—-その頃からすでに今のような生活をされていたんですね。ウェブサイトは当時から運営されていたのですか?

ウェブサイトはカフェを開く前からありました。悩み相談を受けたりしていましたね。カフェを開いている時はカフェの内容でしたし、修行に出ていた時は修行での気付きの内容をブログに綴っていました。

ミニマルな生活ですが、ネットなどはうまく活用されていたんですね。座禅道場は会費制とかですか?

いえ、今ここにおいてある賽銭箱と同じものを置いておいて、好きな金額を入れてくださいと。お気持ちですね。それは昔からずっとそうです。まあ、当時ですと1冊目の本が随分売れたこともありまして、何の不自由もなく生活はできてましたね。必要最低限の生活ですが。ですので、道場に来られた方のお気持ちをあてにしなくても良い状況だったのです。非常に恵まれた状況でしたね。

—-「月読寺」に来られる方の属性は、昔と今では違いますか?

昔の方が若い方が多かったように感じますね。それも女性が偏っていましたね。8対2で女性が多かったです。最近は5対5くらいですけどね。

—-昔から女性の方が座禅とか瞑想とかに興味があるんですかね?

そうとも限らないと思います。昔は、どちらかというと女性向けの内容の本だったためそのような状況になったのではないでしょうか。今は特に、性別に偏っている内容ではないので男性も多く来られますね。

—-本の内容に左右されるのですね。たくさんのメディアの取材を受けていらっしゃいますが、お受けするメディアの取捨選択はどのように行っているのでしょうか?

クイズ番組などは確実に断るんですが、、、一つの目安としては、メディアを通して自分をご覧になった方が座禅や瞑想に興味を持ってもらえるか?というのを考慮します。ですので、瞑想などの行為に対して失望される恐れのあるメディアでしたらお断りします。それ以外でしたら基本的にはお受けします。

—-ありのまま伝われば大丈夫ということですか?

ありのままがそのまま伝わることはないと思います。ですので、極端に偏った伝わり方でなければ良いと思います。完璧は求めていませんよ。良い要素が伝わりそうなら大丈夫くらいに考えています。

座禅の重要性と宇宙の法則

—-小池さんの中では、道場を開くのも本を書くのも同じ目的なのですか?それともそれぞれに別の目的があるのでしょうか?

そうですね、本を読んだ人が座禅に興味を持ち、月読寺に来て頂ければ嬉しいですね。メディアを見た人で私に興味を持って頂ければ、そこから本を読んでくれるでしょうし、本を読んでさらに興味を持ってくれた方が実際に「月読寺」まで足を運んでくださるのです。そういった流れの中で座禅に興味を持って頂ければと思っています。そういう意味で繋がってはいますね。

個人的な意識としては、最近は特に本を書くことや何かを発信することにあまり興味が持てなくなっています。その意識は加速度的に顕著になってきています。今は興味が無いなりにやってはいるんですけど。

座禅を通じてこそ本当に人間が生まれ変わりますし、生まれ変わった人は他の人を変容させるパワーを持ちます。自分をより一層研ぎ澄ませることと他人を変容させることのできる力を持った人を育てたいという事に興味が全力で向いているところがあります。この場合、他の人を変容させるパワーを持つ人というのはお坊さんでなくてもよいのです。例えば、普通に介護のお仕事をしながら、そういったお力を身につけられるのであればそれはとても素晴らしいことだと思います。

「仏」とは、覚者とか完全に目覚めたものという意味で、目覚めたものの法、それが「仏法」です。目覚めたものがいるから「法」がある訳ではなくて、「法」とはもともと人間を含めた自然のすべてを覆っているものです。人が目覚めようと目覚めまいと「法」はあるのです。それを「仏法」と名ずけるのは、実は少しおかしいんですよ。仏教の法則ではないわけですから。

—-もともと自然にあった法則という事ですか?

そうです。法則そのものは宇宙を貫徹しているもので、特定の宗教とか、特定の宗派とかは関係がないのです。そういう意味では、法そのものに名前は必要ないのです。ですから、私は「法」そのものに沿って生きられるように鍛錬を積むという事と、そのように生きられる人を育てるということに興味関心があります。ですので、私の関心は仏教とかお寺とかお坊さんというものに向いていません。こういう事を「てらのわ」で話していいかはわかりませんけれども。笑

—-いえいえ、なんでもおっしゃってください。笑
では、小池さんの目的は座禅を広めるということでしょうか?

そうですね。先ほど「法」そのものに沿って生きられる人を育てたいと言いましたが、そのような人を一人、二人と育てるのはとても尊いと思っています。というのも、その人が発するエネルギーが抜本的に変わってしまえば、無意識的にその人の周りに与える影響が大きいからでして、反対に負のネガティブなエネルギーを発する事になればそのマイナスな影響は計り知れません。かつて私が周りに悪い影響を与えたように。ですから、育てるという行為はとても慎重に行っている訳です。

—-個人のエネルギーのベクトルを正すみたいな事でしょうか?

はい。あるべきところに持っていくと言いますか、実は誰しも我執のようなものを持っています。頭が作り出す「自分は素晴らしい」「自分はこうならないといけない」「あの人は劣っている」とか、そういう頭の中のおしゃべりに埋没されてしまっているせいで、完全に大切な事を見失っています。その大切な事を見出しさえすれば、莫大なエネルギーが心身に流れ込んできます。ですから、人は元々ものすごいパワーを与えられているのです。

頭の中のおしゃべりを行う事でエネルギーが詰まってしまいます。それは、自惚れていても、劣等感を感じていてもエネルギーは詰まってしまいます。ところが仏道というものは「法に沿う」と言っていますが、「法に沿う」とは一体どういう事かと言いますと、本当に大切な事は一つだけで、みんなが「いる」って思っている「私」という概念は、徹底的に瞑想してみると本当は「いない」とわかってしまうのです。

みなさん、仏教について多くの人が誤解をしています。私という我執があるので、その我執を消すとか薄めるという行為が仏教だと思っている人が大勢いるようですが、実は全くそうではなくて、よく調べてみれば「私」という存在が「いなかった!」という事に気付くだけなのです。

「私」の本質

決定的に安心を得たとさっき申しましたが、「私」が考えている事も、「私」が見ているものも、「私」が聞いているものも、調べてみると私が考えているわけではなくて、勝手に頭の中でその考えが生まれては消えていくものなのです。私が聞こうと思わなくても、勝手に鳥の声や人の声は聞こえてくるわけです。または、目の前に人が居るとして、見ないようにしようと思っても見えるものです。つまり、五感も思考も勝手に自動的に起き続けていて、それをしている「私」なんていうものは「どこにもいない!」というのが観念ではなくて本当にわかった時に、とても多くの事がどうでもよくなってしまうのです。

この「私はいない!」というのが理解できると、様々な事が明確になってきます。例えば、「私はこうなりたい」とか「あの人に勝ちたい」といった気持ちは何の意味も持ちません。そもそも「私」がいないのですから。つまり、良いエネルギーを詰まらせてまで「私」という緊張を作る必要はないという事がわかってきます。

「私」というか我執とは何かと申しますと、与えられたものを拒否することと、与えられていないものを欲しがることです。しかし、この2つは法則違反となります。なぜ人は法則違反をしたがるかというと、それにより利益を集めたいと思っているからです。でも、皮肉な事にそういった考え方がエネルギーを詰まらせてしまう原因になります。そういった事が理解できるようになり、エネルギーを詰まらせなければ、本当に莫大なエネルギーが頭のてっぺんや額の第三の目あたりからどばーっと流入してくるのです。そのエネルギーが足の裏へ抜けていったり、反対に足の裏から入って頭のてっぺんから抜けていったりという事が絶えず起き続けているのです。

こうした現象は、エネルギーを詰まらせないから起きるのであって、また、入ってきたエネルギーを持て余す事なく解放するから新しいエネルギーが入ってくるのです。これで良い循環が起こり続けます。反対にあれが欲しいとか、あれが嫌だとか思えばすぐに詰まります。詰まってしまうと、少ししかエネルギーが入ってこないですし、全く入ってこない事になれば死んでしまうので、全く入ってこない人はいないのですが、あるべきところにあるようにと言いますか、結局みんな運命的に与えられている場とか、才能や才覚、体調、体質というところから始まって、精神的な性質とかもですけど、そういったものを観察して、そのどこにも「私」というものは発見できないと気付く事が重要なのです。

今、お伝えした事を聞く、もしくはこの文章を読むと何らかの印象が生じると思うのですが、その印象を生じさせようとは誰も思っていないはずです。ある話を見たり聞いたりしたら、その印象は勝手に生じるだけでして、本来でしたらそこに「私」なるものの意図などは入っていないはずです。映画を観て何を感じるとか、花を見てどう感じるとか、時計を見てどう思うとか、ある情報に接触したらある反応が生じるということ。こういった観察をとても細かく行っていくと、すべての反応は「私」が思っていると勘違いしているという事に気づきます。そうすれば、法則に則ったものを拒否するような事はなくなるのです。自然と法則に心が吸い寄せられるようになります。そうなると、人それぞれに与えられた法に基づいたミッションというか役割がわかってきます。この前、座禅で気づきを得た人も同じような事をおっしゃっていました。ある意味、啓示が与えられるんですよ。

自分のわがままであーだこーだ考えていてもダメで、宇宙の法則と一致していればとてもクリアに理解できる事があるのです。良いエネルギーも循環しますし、与えられるものも与えられ続けます。しかし、気をつけないといけない事は自惚れない事です。座禅を通して気づきを得たとしても、そこからが本当のスタートなのです。そこで自惚れた瞬間にエネルギーは詰まり、悪循環が生じる事でしょう。ですから、どこまでも歩まなくてはなりません。

このようにたくさんのものが流入してきて、多くを手放し、さらに多くのものが流入してくるような生き方というのは、現代社会で推奨されているような生き方とはある意味真反対の生き方だと思います。現代社会では、外見上自己実現をしている人がうまくいってるように思われて、どんどん役割が回ってきますが、それは過ちですし、どこかで行き詰まります。しかし、「私」というものが存在しないとわかると、本当の役割を理解し、エネルギーの通り道、宇宙の歯車として生きていくと平安ですし、苦しみなど無いのです。そして、それ以外の道は一切無いと気付く事ができます。

これは仏教とか仏法では無く、端的にただの法です。普遍的なものであり絶対的なものです。

—-今、マインドフルネスなど注目されていますが、小池さんが実践されている座禅と今のマインドフルネスは同じ類いのものなんでしょうか?

マインドフルネスは、出処は同じなんですけど、私が知る限りでは、ジョン・カバット・ジンというアメリカ人の方がアジアで仏教の修行をされたりして、それを精神医学と融合させ、ストレス・リラクション・プログラムという形で非常にうまく定着させたものです。

—-マインドフルネスはストレスを軽減するプログラムという事ですか?

少なくともアメリカから来ているものはそうですね。しかし、一つのメソッドとは別に考えますと、マインドフルネスという用語自体は、もともと仏教の八正道の7番目、「正念」というのがあるのですが、これは自分の体の状態や心の状態を緻密に気づいているという事です。この気づいている事を西欧人にわかりやすく伝える為にマインドフルネスという言葉にしたという経緯があります。他には「インサイト」とかですね。
直感とかそういった意味ですね。ですので、逆輸入されてきたマインドフルネスなどの考え方は先ほどの無我や法といったスケール感の実践ではないので違いが目立つ気もしますが、突き詰めるなら元は同じとも言えます。

—-おすすめの座禅法などあれば教えていただきたいのですが。

なんとも言えない部分がありますね。人によって合う合わないというのがありますので、一概には言えない部分があるんです。私はここに来られる生徒さんの反応を見ながら、アドバイスをするようにしています。昔、私が実践していた修行法というのは、非常に強い集中力が必要な「禅定」という超集中状態を形成してから自分の内面を観察するという事をやっていました。初めは、この方法を皆さんにも推奨していたのですが、集中に入る事でものすごく気持ちの良い状態に入っているのはわかるんですけど、そうするプロセスで内面に抱えている深い心の傷とか、体に潜在的に隠れているとても強い痛みとか、気持ち悪さとかそういったものが浮かび上がりがちなのですが、そういったものに冷静に観察する事で浄化していくというプロセスなのですが、浄化できずに悪い方向にいってしまう方が多くいらっしゃったので、やり方を変えたのです。

最近はより多くの方がいかに負担無く、安全に取り組んでいただけるかという事を重要視した瞑想法を取り入れています。ただ、私の瞑想法は様々な経路を経て今の形になっているので、非常に独特なものになっています。一つだけ言える事は、ここで教えている瞑想法にしろ、別の方が教えている瞑想法にしろ万能のものは無いという事を理解しないといけません。ある人には合うけど、ある人には合わないということです。

—-こちらではどのくらいの頻度で座禅会をやっているのですか?

毎週土曜日にやっています。ここでやっていないときは地方などに行って座禅会を開いていますね。スケジュールはウェブサイトを見ていただければと思います。

本日は貴重なお話、ありがとうございました。

こいけ・りゅうのすけ 1978年生まれ。大阪府出身。
東京大学教養学部卒。カフェ経営など経て、月読寺住職。
著書に『考えない練習』(小学館)、『平常心のレッスン』(朝日新書)など。
オフィシャルサイト 家出空間
http://iede.cc/

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